先日、月見の里学遊館ホームページのコラム「うさぎの小箱」に寄稿させていただきました。
研究者としても実務家としても若輩者の私にこのような機会を与えてくださった
学遊館スタッフの皆様に厚く御礼申し上げます。
コラムはこちら→
http://usagihall.com/column/004/index.shtml
このコラムを上げたのがつい最近で、その後、東日本大震災があり、
私の文章にどれだけの意義があったのか、ずっと考えていました。
もしかしたら全く意味のないことかもしれない、でも少なからず意味があることだとすれば、
今思うことをブログで書かせていただこうと思います。
これほどの喪失感を与えた天災というのは日本の歴史においてそうあることではありません。
しかし、起きてしまった。
震災から被災地は、そして日本は確実に復興します。
しかし、そのためにはどうすれば良いのか。
今ここで議論するのは危険ですが、
衣食住が満たされるようになったとき、次に人々が向かうのはどこでしょうか。
精神的な喪失を満たすため、アイデンティティを取り戻すための行動に移ります。
私はそこでアートの出番だと思います。
アートは我々に新たな見方を、そして人々の繋がりを与えてくれます。
昨今のコミュニティアートや地方のアートイベントはそれがテーマになっています。
震災においてアートは無力だというのは、
アートは金のかかるものだ、金銭的な支援者がなくては成り立たない、
アートは癒し、生きがいを与える、
という意見と一緒です。
アートは、そして文化はそんな生半可なものではない。
文化は我々が生きていく上で欠くことのできないものです。
アートはそれを刺激し成長させるものなのです。
阪神大震災後の神戸は、震災に強いまちづくりを行うと同時に
市民にとって震災とはなんだったのかというまちづくりを行いました。
それがユネスコ創造都市ネットワークへの登録に繋がるわけです。
この震災によって日本という国は大きく変わるだろうと思います。
政府、行政、大企業に依存する生活はもう限界だということ、
都市経済が自立可能なレベルでの循環型構造を持つことが出来れば、
国に依存しない都市は可能です。
そこの資本となるのが人々が持つ創造性であれば、創造都市は可能です。
コラムでも述べましたが、創造性は誰しもが持つものです。
ただクリエイティブ・クラスという言葉は創造性が限られた人しか持っていないという誤解を生んでいます。
フロリダがクリエイティブ・クラスと使ったのは、創造的産業の従事者を指すものであり、
人々の持つ創造性を否定するものではありません。
そのためクリエイティブ・クラスを対象とした創造都市への取り組みというのは新たな格差を生むものであり、
さらには都市に住む人々が創造都市への興味をさらに失ってしまうことになります。
このような取り組みならやらない方がマシです。
創造都市を理解するのは簡単なことではなく、アートの意義への理解を促進することも難しいことです。
ただ、今まで受け手だった消費者から発信される時代(プロシューマの時代)ですし、
ツイッターやFacebookといったソーシャルネットの時代であれば、
我々の活動は自由でありながらも、いつの間にか創造性を研ぎ澄まされています。
オンラインのものがどのようにオフラインで意義を持つか、そこを考えれば創造都市は可能です。
アートはオンラインもオフラインも行き来できるものです。
創造性を発揮できる場を一人ひとりが考えること、これが今後必要なことかと思います。