クリエイティビティの源泉としてのネガティブさ

山森 達也

2014年07月26日 01:46

よくある話ではあるのですが、
失恋して相手を見返してやろうとして仕事や学問を頑張って、
そしたら一角の人物になって幸せな家庭築いて、
「あの時、失恋してなかったら今の自分はないですよ」
という話。

いじめられっ子がいじめられないように頑張ってスポーツはじめて、
それでプロの選手になった
という話。

失敗から始めること、壁を克服していくこと、
それにかける労力とか長い長い時間とかを考えると敬服するしか無い。
才能だとか努力だとか、そんな言葉で片付けられないものがあって、
どれだけの地位を得ても、名声を得ても
本人の中ではまだ超えていないかもしれないネガティブさ。

創造都市研究の中では「クリエイティブな解決力」と言われるもの。
これに対する認知が低いんですよね。

クリエイティブなものは良い物、創造的なものはポジティブなもの、
表面的に捉えてしまっていては、担い手の皆さんが辛いだろうなと。
だからファッションやスタイルのように受け止められる現状に僕自身が苛ついていると思うんです。
ネガティブなものを越えて行く時にアイデアや技術を磨くことは当たり前のように誰もがしていて、
それを今更「クリエイティブな解決力」って言われても、というのはあると思うんですが、
その誰でもが日常的に行っている行為に光を当てる、評価をすることが、
創造都市の第一歩だと考えています。

以前、クリエイターを特権的に扱うことが創造都市ではないと書きましたが、
やっぱりその現状は変わってないんですね。
もっと言えば、クリエイター支援と創造都市政策は別の話なんです。
フロリダのクリエイティブインデックスはあくまでデータ上の話であって、
クリエイターが多く住んでいれば創造都市です、とは本人も言っていない。

でも、ネガティブなもの、泥臭いものには蓋をして、
きらびやかなもの、新しいもの、若い人材や考え方が良い物に見えてしまう。
それでは何も生まれないし、ブランド物のバッグと変わらない。
ステータスとしてのクリエイティブティはむしろ創造都市と逆行するもので、
ブランド物のバッグの品質や使い勝手の良さ、ブランドを築くまでの歴史、
そこまで見てわかるものというのがあると思うんです。
そしてそれと同じぐらい個人や生活の中には価値のあるものがある。
そこら辺から創造都市を議論できないかなと、思っています。

ネガティブなものを評価することから始める創造都市論、
いや、これは嫌われるな、また嫌われるのか、まーいいや。

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